復縁祈祷の名人 愛染明王護摩供 真言宗阿闍梨 金鳳(きんぽう)先生
 
2016.3.11 最終 更新2017.1.2

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・祈祷師としての金鳳先生
あなたの願い事をベストな方法で解決する金鳳先生。
金鳳先生は、愛染明王を持念仏としてもち、真言密教による作法で摩供を行います。
護摩祈祷 30万円・50万円 料金については相談可。
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祈祷の種類と解説 金鳳先生が書いたもの

祈祷・祈願の基礎知識

 「私を嫌っているあの人を振り向かせてやる!」

そう思って祈祷のお願い、護摩の依頼などしたことはありませんか?実はそこまで来てしまうと、それはもはや「のろい」を相手にかけているのと同じです。「魔術」というものがありますが、仏教の一分野である密教の行者である私から見て、何が「魔術」であり、「のろい」をかけていることになるのか、まずお話ししたいと思います。
 何事によらず、自然に時間が過ぎていく限り、そこには一定の法則があります。それは、原因があり、条件が揃って、結果が出る、ということです。キリスト教などで「奇跡」というものがありますが、あれは、原因もなければ、条件も揃ってないのに、ありえないはずの結果の部分だけが起こってしまうことを指します。なぜそれが奇跡として起こるかというと、原因・条件・結果の法則さえも神が設定したものであるから、神自身はそれを無視した現象を直ちに起こすことができる、と考えるのが「一神教」の特徴です。「一神教」における「魔術」というのは、神でも天使でもない人間が、原因・条件・結果の法則を飛び越えた現象を起こそうとする方法論のことなのです。
仏教的に「魔術」や「呪術」といえば、一つ上の文章から「神でも天使でもない人間が」という部分を削除すれば、表現できると思います。たとえ誰であろうと、自然の法則に逆らって何かの現象を起こす時、それは本尊を定めた祈りではなく、自分の念力=「魔力」を使った「魔術」にしかならない、ということです。何が「魔」なのかというと、大宇宙の普遍的な法則を無視するところが、「魔」の「魔」たる所以なのです。
さて、そのような前提のもとに、祈祷・祈願について、分類を行っていきたいと思います。密教では、四種法といって願い事の内容に大別して4種類あると言われています。それぞれの概略を申し述べます。 

息災(そくさい)

無病息災という言葉がありますね。最近は一病息災、などという言葉もあるようですが、無病で、あるいは、一つだけ持病があるおかげで検査を定期的にするがために、大きな病気になることもなく、息災で、という意味です。では息災とはどういうことかというと、「災いをやすめる」という意味になります。つまり、マイナス要素を取り除く、という意味です。災いもなく、大病もせず、というところでしょうか。当病平癒祈願が代表的な例ですが、受験の合格祈願なども息災です。邪魔されずに自分の力が発揮できること、これ即ち息災というものです。

増益(そうやく)

文字通り、利益を増す、ということです。商売繁盛の祈願など、これにあたるでしょう。では、無一文の人が「お金を得られますように」と祈願することが増益かというと、それは少し違います。仏教が論理的であり、数学的であるのはまさにここです。利益を増す、というのは掛け算の世界です。ゼロに何を掛けたってゼロ。マイナスに掛けようものなら、さらなるマイナスが待っているだけです。まずは商売用なら商売用の通帳にいくらかでもプラスの預金をしてから増益の祈願をしましょう。そして、ここは大切なところですが、他者の財を奪って自分の利益が増えますように、とは努々思わないことです。いつか他人が自分にそういう祈願をかける日が来ます。自らの利益を願う時は、他者全員の利益も併せて願いましょう。ちなみに、増益から派生した祈願に、延命祈願があります。 

敬愛(けいあい)

これも読んで字の如くですが、人間関係を向上させる祈願です。愛という文字を含むため、恋愛祈願のことだと思われがちですが、恋愛も含む、すべての人間関係に関する祈願が、この敬愛祈願です。敬われ、愛されるための祈願ですが、自分が何の魅力も持たぬまま、相手に敬われよう、愛されようとするのは、原因・条件・結果の法則を無視した願いというもので、それは相手を錯乱に陥れようとする呪詛、のろいに他なりません。一時的に願望成就しても、ある日錯乱から覚めた相手が、こちらをより一層嫌悪することくらい、誰にでもわかることではありませんか。まず、敬われ、愛されるに値する自分となることから、この祈願の第一歩を踏み出さなければなりません。ちなみに、この敬愛から派生した祈願に、鉤召(こうちょう)という祈願があります。必要な人、物、神仏を呼び寄せるという祈願です。 

調伏(ちょうぶく)

伏せ、調える、という読み方が出来ますが、他に降伏(ごうぶく)という言い方があり、こちらは、伏せ、降す、という読み方が出来ます。呪詛と混同されることが多いこの種類の祈祷ですが、実際は大事な部分で違っています。「死ね」と思って祈祷すれば、それは明らかに呪詛です。呪詛は相手が望んでいない方向にむりやり捻じ曲げよう、という祈祷のことですから。しかし調伏は、対象は相手であったり、自分のであったりしますが、煩悩に対して行う祈祷です。確かに効果として、それしか解決法がない場合は、相手が死んでしまうこともあるでしょうが、それは目的ではないし、また行者が目的とすべきことでもありません。その目的を持ったが最後、文字通り「人を呪わば穴二つ」ということになります。ともあれ、慎重に取り扱われるべき祈願内容ですし、目的はどうあれ、相手に起こることは大抵マイナス方向のことです。

さて、最後にこれらの祈祷種別の関連性について述べたいと思います。増益は最終的に、

息災に集約されることになります。これは、息災がマイナスからゼロへ、増益がゼロより上からさらに上へ、という風に、どちらもプラスの発想の祈願である、という共通点がその理由です。そして、敬愛は意外なことに、正反対とも思える調伏に集約されます。これは、敬愛では相手の意識をこちらに奪い、調伏では相手の良くない方向に使われているエネルギーを奪う、という風に、何かを奪う祈願になるからです。 

そして残った息災と調伏ですが、これは見方によって、どちらにも集約し得るものだと思います。その意味で私は、コインの裏表のような印象を受けます。実はどちらも、デメリットというものを扱っているのです。どちらも、デメリットがなくなりますように、という祈願であり、その終着点は、祈祷なんかしなくてよくなりますように、という祈願なのです。その昔、仏教の開祖であるお釈迦様が、呪術や祈祷を禁じたというのも無理のない話です。そこに終着点はない、ということを示されたのだと思います。 

え?祈祷の需要がなくなってもいいのか、って?いいのです。一番最後の祈祷内容は、「もう祈祷しなくてよくなりますように」ですから。その成就は、祈祷師が祈祷の仕事をする必要さえなくなることで達成されるのです。そうなるように、渾身の力で祈祷したいと思っています。

祈祷・祈願の実際

「祈祷・祈願は科学的に!」これが私のモットーです。尤も、目に見えない世界をも扱うわけですから、すべてが現在の科学技術や理論によって説明できるものだとは最初から思っておりません。それは後世の科学の発展に期待するところですが、仮にいつの日か、宇宙に起こるすべてのことが解明された時、「あいつはまったく非科学的なことをしていた」とは言われないような祈祷を心掛けたいと願っています。
私は霊能者ではありません・・・ということを看板にもし、それは売りにもなり得ることだと思っていますが、実際に祈祷で物事を解決した実績があることを考えると、広い意味での霊的能力を多少は持っているのかもしれません。しかし、見える、聞こえるというような、いわゆるところの霊能力はありませんし、あってほしくないと願っています。というのは、霊能者の話を見聞きする限りにおいて、祈祷や除霊が必要な事例で見えるものといえば、ザンバラ髪の落ち武者の霊がどうしたとか、奇怪至極な容姿の化け物がどうしたとか、およそ目にして気持ちの良いものとは到底思えないものばかりだからです。私はホラー映画は観ませんし、遊園地のお化け屋敷になど入れない人間です。そもそも怖い話を聞くと、夜トイレに行けなくなるような臆病者です。
そんなわけですから、私に霊能力はない、ということにしておきたいと思います。霊能者という方々は、結構生まれながらにして能力があったり、ふとしたきっかけで見えるようになったり、という風に、形式的な手順は踏まずに、潜在的なものも含め、先天的能力によっていることが多いようにお見受けします。私にはそのような先天的能力はありません。ただし、死に関するヴィジョンを、例えば夢の中のようなシチュエーションで見聞きした経験は、一般人の皆さんに比べて多いようです。仏教に出会う以前から多かったのですが、その内容をきちんと説明できず、まともに取り合ってもらえませんでした。

子供の頃見た夢で、最も怖かった夢をお話ししましょう。幼稚園に入るか入らないかだったと思います。(年長組の1年だけでした)父と母の間に寝ていて、何とも嫌な夢を見てしまいました。両親が隣にいることを認識していましたので、半覚醒状態だったと思うのですが、仰向けに寝たまま身動きがとれず、目の前はナレーション付きのヴィジョンが流れるのです。その内容は、映像は次々とうつされていく人間1人分の剥き出しの遺骨。その一つ一つに、名前、享年、どんな人生だったか、というようなナレーションが流れていくのです。翌日、病院に連れて行かれたのですが、この夢の内容を正確に説明することが出来ず、「怪獣映画でも見てたから怖い夢見たんだろ」と、怪獣か何かの夢でうなされた、くらいに受け流されてしまい、非常に悔しい思いをしたことを覚えています。怪獣の夢の方がどれだけ気が楽だったでしょう。妙にリアリティのある、不気味この上ない、しかも淡々とした夢で、子供心に理解できるような夢ではありませんでした。
閑話休題。そんな私に与えられた祈祷は、真言密教の方法論によるもの、つまり自分の能力ではなく、ノウハウによって祈祷することです。ノウハウというのは、願主の願いを本尊に伝えるノウハウであり、決して自分のマジックパワーで現象を動かすことではありません。前にも書きましたが、それは「魔法」「魔術」であり、密教の祈祷ではありませんから、自分に跳ね返ってくる危険な方法です。そういう能力が世の中に存在することを否定する根拠は持ち合わせませんが、そして、そんな力が使えたらカッコよさそうだ、という悪戯心があることも否定しませんが、実際にはそんなことはしたくないと思います。また、そんな能力を習得してしまったら、自分自身をコントロールしきれるだけの強さが自分にあるとも思えませんから、そんな能力はないに越したことはないのです。他の方については知りませんが、私にはそれが最良と思われます。

それでは、実際の祈祷例を書いてみたいと思います。まずは敬愛の祈祷の話からですが、ある舞台芸術の団体を主宰している知人から、その初期において人間関係のもつれがあったため、敬愛の祈祷を依頼されたことがありました。これはごく単純な、団内での敬愛、和合の祈祷だったのですが、その後、どれだけ新しいメンバーが入って来ても、人間関係に亀裂が入ることもなく、個性派揃いの舞台人ばかりの集団では珍しく、争いもない、和気藹々とした現場が続いているそうです。
逆に、調伏の祈祷の話も書いておきたいと思います。依頼主の上司による部下いじめが酷く、また現場の権限もその上司が握っていて、その上司よりも上の人間は別の場所にいたため、やりたい放題で職場では数人の発狂者や自殺未遂まで出していたそうで、その上司に対して調伏護摩を頼みたい、というご依頼がありました。私は依頼主の煩悩に対して調伏の祈祷を致しましたが、効果は数か月してあったようです。社長ら幹部が、別の場所にあった事務所を畳み、その問題上司がいる場所に移転してきて、好き勝手なことが出来なくなり、やめていったそうです。実はその護摩を焚いた時、その建物のすぐ外で作務をしていた友人2人が、臭い!とクレームをつけてきたのですが。臭くなるようなものを火にくべた覚えはありません。要するに、上司に何か化け物が憑いていて、それが臭っていると思われる、いうご意見でした。
この調伏の事例を見ていただいたらわかるように、その上司を殺してしまったり、というような手荒なことは起こっていません。部下いじめの性癖がある人間にとって、居心地の悪い会社となり、自ら去って行っただけです。つまり、極端に不幸になった人間が出ておりません。これを、効果が弱いとお考えになりますか?それとも、平和裏であり、適切とお感じになりますか?このような事態になった場合、絶対に上司を呪い殺してやるべきなんだ!という発想をお持ちの方がおられましたら、それは私にご相談なさるべきではありません。呪殺専門の方がどこかにおられるはずです。しかし、末路が悲惨になることはお覚悟下さい。無理に現象を動かせば、カルマの流れを不自然なものにし、功徳の借金を背負い、利息まで支払うことになっても文句は言えません。

最後に、大事なことを申し述べます。私は一方的な丸投げ祈祷は受けません。必ず依頼主との確認の上、何らかの努力をしていただきます。それが現実的な内容なのか、神秘的な内容なのかは別として、何かはするようにしていただくのです。「自分は何事かを出来る!」この自信に過ぎたるものはないと思います。そんな自信を持っていただくために、徹底的にヒアリングをした上、具体的に出来ることをアドバイスします。祈祷はあくまでもその応援、バックアップだと捉えていただきたいのです。人事を尽くして天命を待つ、まさにそういうものなのです、祈祷・祈願というものは。

祈祷の決意 

バシッ!!!

大きな音がして私の意識は解放され、見るとそこはベッドの上でした。私1人なんですが、明らかに私の頭のあたりに今の今まで誰かがいた気配が残っていました。初めてお盆の檀家回り、棚経と呼ばれるアルバイトに行く、2ケ月ほど前のことでした。それは阿闍梨となるための四度加行という修行をするよりも前、得度して小僧さんになった半年と少し後でした。目覚めた私は肩で息をしておりました。ただの悪夢とも思えず、腕時計を見ると・・、私は文字表示のデジタル時計をしていたのですが、リセットで0時0分0秒をカウントしていました。リセットされたのは、ちょうど大きな音がして私が目覚めた時です。これを境に、この時計にはリセット癖がついてしまい、時折勝手にリセットしてしまって、何度も時間合わせを余儀なくされました。
なぜこんな夢を見ることになったのだろう?考え始めてすぐ、原因はわかりました。その3日ほど前のことだったと思いますが、私は高野山の、とある場所に行きました。そこは高野山三大心霊スポットの一つ、そしてそれは高野山の三大処刑場の一つである、蛇柳(じゃやなぎ)という場所でした。一の橋からバス道を中の橋方面へ。途中右手に商工会館というのがありますが、その向かいの生垣を越したあたりの、奥ノ院の敷地内にあるのが、蛇柳。今は柳の木はなく、蛇柳供養塔というのが建っていますが、そこはとてつもなくゾーッとする場所でした。なぜそんな場所に行ったのかというと、幼少の頃から死刑というものに興味を持ってからというもの、関連する情報があれば調べずにはいられなくなったからです。別に心霊スポットに行きたかったわけではありません。思えば、怖がりの癖によくそんな場所へ行ったものです。その場所は、明治以前、高野山内の処刑場として使われていた場所で、しかもその方法は、血を流さない方法である、生き埋めでした。
たどり着くと、これまでに感じたことのない妖気がありました。空気が「ゾゾゾゾ」と音でもたてているかのようにすら感じました。なるほど、これは心霊スポットに違いない、と確信し、私はチベット密教の手段を借りることにしました。チュウの瞑想といいますが、自分の身体を切り刻んで鍋物にし、神々、悪霊などに食べさせる、という少し血生臭い瞑想なのですが、夜に墓場などで行じるのが最も良いとされている修行法です。ここでやるなら、まさにこれしかない、という瞑想法です。するとどうでしょう。妖気はスーッと、嘘のように消えて、清浄なヴァイブレーションに切り替わりました。その場は納得して帰ってきたのですが、3日して見たのが悪夢でした。
どうやらお坊さんとしてバイトに行く、というシチュエーションのようです。なるほど、初の棚経が決まったところでしたから、それが意識にあったのでしょう。基本設定は坊さんのバイトです。そのバイトの内容なのですが、とても棚経とは言えないオカルトなものでした。光明真言での除霊です。「おん あぼきゃ べいろしゃのう・・・」これで悪霊や怨霊を成仏させていく、という祈祷師のバイトなのです。それは一生懸命に仕事しました。あっさり成仏する霊もいれば、なかなかしぶとく、力を込めて成仏させねばならないのもいましたが、最後に来た霊はとてつもなく強くしがみつき、渾身の力を込めて光明真言を叫び、右手の指から光を発しました。その力比べがマックスに達した時、バシッ!!!という音がして、意識がベッドの上に戻ったわけです。そしてそこには、つい今しがたまでいたこの世の者ではない誰かの気配。

 「誰か連れて来てしまったんだな・・・」

荒い息をしながら、そう思いました。同時に思ったのは、そんなことをするつもりはなかったけれど、結局祈祷師という側面も持たざるを得ないのか・・・という諦めにも似たものでした。 

「わかった」

それがその時に芽生えた、祈祷師としての決意でした。真言行者としての本分は、密教を他者への抜苦与楽に応用することです。葬式、回忌法要、先祖供養というものの他に、祈願、除霊など、他者の精神世界にまで踏み込んで楽を与え、悟りに導いていくことを避けてはいられない、ということを覚悟しました。せめてものオリジナリティは、それら祈祷を科学の上において行おう、ということでした。単なる願望成就は祈祷しないこと、倫理に悖る祈願でも受け付けること、というのが、その時以来、私の祈祷師としての方針になりました。不道徳だから、という理由で拒否してしまうのでは、願主に苦しみが残ってしまいます。私がしたいのは、願主の苦の解決なのです。
もちろん、依頼者は願望成就を依頼してくれればよいのです。しかし、そこに適切な教えを与え、理に適った願意に、そして苦悩が軽くなり、解消し、悟りを得るきっかけとなる祈祷に持ち込むのが私のスタイルです。私が応用するのは、修行や伝授会で授かった祈祷の知識だけではなく、小学校の頃から溜め込んだ、仏教の教義も対象となります。せっかくの教義を使わずして、私の特性は生かされません。どうすれば、その人が楽に生きられるのか、という観点を失って、私の祈祷はあり得ないのです。

私個人の念持仏であります愛染明王は、愛欲(執着)をそのまま悟りとしているモデルケースです。否定するのではなく、全肯定によって煩悩即菩提にして一切清浄という悟りを表しています。そこを基本スタンスとして、仏、菩薩、明王、天部と、様々な修法の伝授を受けておりますので、愛染明王に限らず、適切な本尊による祈祷をさせていただきます。

●お祓い・除霊の金鳳先生
対面にてのお祓い 1万円。
セルフ除霊方法伝授 2.5万円 自身で憑依されたことがわかる人向き、高級線香さえあれば、いつでも、自身で除霊できます。
屋敷のお祓い 3万円 大阪市外は別途交通費実費
結界を張り、室内にいる邪霊を神様にランクアップさせます。
ご用意していただくもの。ごはん(電子レンジがあれば冷めたご飯でも可)だけ
それを電子レンジで温め、施餓鬼供養をします。
そして、おうちに結界を張ります。
そして、その結界内の悪霊に対して、悪霊としての機能を停止させます。そして、その結界内を浄土して扱います。
悪霊たちが神様になって、住んでいるものを守るということになります。

●僧侶としての金鳳先生


仏前結婚式 10万円+交通費5000円
葬式フルセット  枕経・通夜・葬式・戒名セットで30万円+交通費5000円
葬式・戒名セット 20万円+交通費5000円
月参り 1万円 大阪市外は別途交通費実費
法要 3万円 大阪市外は別途交通費実費
墓地指導・仏壇指導 3万円 大阪市外は別途交通費実費

●水子供養・先祖供養の金鳳先生
水子供養 堕胎してから49日以内 5万円 水子の教育します。
水子供養 堕胎してから50日以降 33333円 何体でもOK。
先祖供養 33333円 何霊でもOK。


お問い合わせは、メール reinou2@infoseek.jp

お問い合わせは 電話 080-3766-1101 山本まで。

金鳳先生からの春季彼岸先祖供養ご修行のお誘い 2016.3.14

春季彼岸先祖供養ご修行のお誘い

本格的な春まであと一歩のところとなりましたが、皆様如何お過ごしでしょうか?そして気候の寒暖には関係なく、お彼岸はやってまいります。さて、彼岸とは何なのでしょう?彼の岸、つまり向う岸ということなのですが、こちら側とは何で、あちら側とは何のことでしょうか?
答えはズバリ、こちら側(此岸)とは煩悩多き迷いの境地であり、あちら側(彼岸)はまさに迷いの消えた悟りの世界のことです。これは、三途の川のこちら側とあちら側なのでしょうか?いえいえ、それは単なるこの世とあの世というものです。迷っているか、悟っているかによって、死んだ後も、また生きている時でさえ、経験するものが違うのです。
ここに水があるとしましょう。人間には水なのですが、地獄の亡者には自らの喉を焼く溶けた鉄や毒に感じられ、餓鬼は血膿と思い、動物には住処と映り、天人には甘露の味わいなのです。それは、各々の境地によって同じものが別のものに感じられているのです。では、悟った者にはどう感じられるのでしょうか?それは、水であると映ります。彼らには、物事をありのままに見る力があるのです。そしてその境地こそ彼岸なのです。
仏教には、彼岸に至る、という意味の修行があります。それは彼岸に至るための修行法であると同時に、その修行そのものが彼岸に至ることでもあります。それはサンスクリット語でパーラミターといい、大乗仏教において6つのパーラミター、漢訳仏教用語で六波羅蜜と言われています。つまり、悟りに至るための6つの修行法、ということです。
そのきっかけとなる第1のステップが布施です。これは料金を払うこととは少し違います。お布施というとお坊さんに支払う読経などに対する対価の名称で、高級なお寿司屋さんの時価みたいなもので、対等な決め事がない料金のことだと思っていらっしゃるのではないでしょうか。そうではないのです。自分の修行のために、何かの対価としてではなく、喜びを抱いて任意で施すことをいうのです。お金を出す方に、お金を出す修行をすることへの喜びがあるかないか、それがお布施と料金を分ける境界線と言えるでしょう。
次が持戒ですが、それは普通、戒めを守り抜くこと、と解説されています。しかし、もっと深い意味があります。サンスクリット語ではシーラというのですが、それは習慣性のことなのです。これをする、これはしない、ということを習慣化し、体に染み込ませることか持戒の修行です。
次は忍辱。これは外敵圧力や自らの煩悩による圧力に対してひたすら耐え忍び、持戒を保ち続け、布施をし続けること。
その次は精進。要するにそれまでの3つを崩さないことです。少なくとも決めた期間はやり通すことです。
そんな集中力が、その次に来る禅定を生みます。極度に集中した状態で、物事を深く観察し、考えることが出来るわけです。
それが最後、6つのパーラミターの6番目である智慧に繋がるのです。物事を偏りのない心で見て、適切に考えて結論を出すことが出来るので、みんなの幸せに繋がります。

彼岸、という名のついたこの1週間ほどの日数を、修行者として過ごしてみませんか?まずはきっかけとして、先祖供養の費用である33333円をお支払い下さい。私はそれをまず神仏にお供えし、皆さんからいただいたご先祖様のお名前を読み上げ、思いを馳せ、皆さんの布施修行の功徳がご参加の方から7代前までのご先祖様に行き渡るように、特に悪業が多少勝っていて、あまり好ましくない状態に生まれ変わっているような方ほど、より多くの功徳が効果を発揮してより良い境地に引き上げられるよう祈祷し、最後は護摩で焚き上げたいと思います。
なぜ7代前までに限るのか、不思議に思われる方もいらっしゃると思います。それは、この人がいなかったら、今のあなたはいなかった、と全員に関して言えるのは、およそ7代前まで、という考え方が仏教にはあるのです。ですから、皆さんが彼岸という機会に布施の実践という簡単な修行をしていただくだけで、私がその先を修行し、皆さんのご先祖様がいわゆるところのあの世にいようが、その後輪廻転生して宇宙のどこに生まれ変わっていようとも、必ず皆さんの修行の功徳をご先祖様に届け、各々その場所で高い境地に到達していただきます。稀にご先祖様の生まれ変わりが皆さん方のどなたか、ということもあり得ますが、それならそれで、修行の功徳をご自分で受け取ることになるでしょう。
また、今回は特別に、自分のご先祖様ではないけれど、今の自分があるのはこの人のお陰で、その人はもう亡くなっている、という方がいらっしゃる場合、その方についてもご供養をお受けします。
このように、先祖や恩人への供養をすることで、いずれは同じように供養されることになるでしょう。今、施した功徳は、その時に何倍にもなって返ってきます。大宇宙を相手に壮大な貸し付けをしてみませんか?

お申し込みは、reinou2@infoseek.jp
施主(お申し込み者)名と父方・母方(または父父方・父母方・母父方・母母方)などの姓をお知らせください。
33333円を以下にお振込みください。
三菱東京UFJ銀行難波支店普通5234066 パソコンショップケーブル



金鳳先生から復縁祈祷希望の方へ 2017.1.2

復縁祈祷の依頼・・・その前に!

復縁のご祈祷依頼を検討下さっている皆様、ご依頼をお受けすることは容易いことではありますが、その前に今一度、立ち止まって考えていただきたいことがあります。これまでに復縁祈祷のご依頼を受けてお話しさせていただいた経験や、他の祈祷師の方が受けられた復縁祈祷についての話をもとに、私も今一度その意義について考えてみましたので、そこで得た見解について、お伝えしなければならないと考えました。

少し厳しい言葉が続きますが、結論から申しますと、復縁祈祷の依頼というものは、祈祷が成立するかどうか以前に、依頼として根本的に成立していない、と感じることがほとんどである、ということです。平たく申せば、復縁祈祷を依頼するという性格、行動パターンというものが、実は別離の原因になっていると感じるのです。どういうことかと申しますと、復縁祈祷をご依頼の方というのは、自分を変革する必要性に気付いてらっしゃらないことがほとんどです。単純な復縁祈祷というのは、自分は変わらぬまま、相手だけ変えさせようという、身勝手な無理難題であることをご理解いただきたいと思います。ごく普通に「良き人」であれば、その人にはどんなに非がなく、可哀想としか言いようのない別離によって苦しもうとも、復縁祈祷などは依頼しないものです。

人の縁というものは、陶器のようなものです。大変割れやすい。世の中にはそれなりに、復縁の話があります。もちろん、祈祷などしていない状態での復縁です。それは、原因がちょっとした誤解であったり、どちらかが、あるいは双方が別離を機に、自らを省みて何らかの変革をとげた上での復縁であり、陶器で言えば、手が滑ってその場で大きく割ってしまったようなものです。陶芸の心得があれば繕って使うことも出来ます。しかし、復縁祈祷のご依頼の話を聞いていると、陶器で言えば手が滑って割れたのではなく、陶器に爆弾が置いてあって、それが爆発して木っ端微塵になった、その陶器を修復してくれ、と言われているように感じるのです。しかも、爆弾はそのままに。

別離というものを考えてみましょう。依頼者より相手の精神が上だったか下だったかは知りませんが、一つだけ確かなのは、何かが合わなかったということです。そして、依頼者に共通しているのは、そうした事情、原因をさておいて、元に戻してくれ、と依頼をしてこれる性格である、ということです。相手が目の前にいないのに、自分はこのままで、相手を変えてくれというのですから、原因・条件・結果の法則に基づく仏教の僧侶に依頼することとしては、あまりにも無理難題です。木っ端微塵になり、破片がどこへ飛んで行ったともしれない陶器を修復できるのは、ハリー・ポッターで登場する魔術だけでしょう。仏教の開祖である釈迦牟尼は魔術を明確に否定しています。魔術はその末弟子たる我々僧侶がすべきことではありません。

さて、生臭い話ではありますが、そのような依頼をしてこられる方に限って、祈祷料の用意は出来ていないという傾向があまりにも強いです。未練にばかりとらわれて、現実的な段取りが出来ていないのです。この現実感のなさ、狼狽するばかりで自分の状況を冷静に判断できない愚かさ、これが祈祷料の用意もなしに無理難題の依頼をするという行為に繋がっているのです。
繰り返しになりますが、復縁祈祷というのは、無理難題な祈祷です。陶器を割ってしまった時、新しい陶器(別の土をこねて作ったもの)を入手する方が、修復よりも簡単でしょう?つまり、まだ始まっていない、良縁祈願とか、片思いが両想いになる祈願をする方が、敬愛祈祷としては簡単なのですよ。実際、私は自身の復縁祈祷などしたことがありませんし、死ぬような思いの恋をした時にさえ、成就のための祈祷をしたことがありません。

さあ皆さん、ご自分を変革する覚悟はお持ちですか?祈祷料のご準備はお済みでしょうか?そこまでの用意が出来たら、どうぞご相談をお寄せ下さい。あなたが自己変革するためのお手伝いを致します。変革なしに、相手は魅力を感じてはくれないのですから。